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記憶の整理箱

 

———多くの人は日々何を考え、何を思い生きているのだろうか———

 

 ふと、そんなことを考える。多くの人は何も考えてなどいない。それでいい、そうあるべきなのだ。賢くなることに価値などない。考えない生活の方が考える生活よりも何倍も幸せである。考え続けて、もう十分にそのことを知っているはずなのに。なぜだろう?今日もまた私はこうして考えている。

  

 私は幼い頃より常に何を考えていないといけない体質だ。一種病的なまでに思考の停止ができない。ぼーっとする、ということができないのだ。まわりから「ぼーっとしてたよ?」と言われることはあれど、それは現実世界とは遠いところで何かを考えているからであって、ぼーっとしているわけではない。目の前のこと(私の物理的な部分が近接している何かしらの状況)に反応ができていないだけのことである。

 考える内容は様々だ。他愛もない内容から私という人格の本質に迫るようなことまで、何もわかりはしないのだが。しかし、多くの人からの評価やちょっとしたやり取りによって得た客観的事実は、私か様々なことについて「深く考えすぎ」だということであった。

 

 深く考えて考えて、考え抜いた先に得る結果は(今のところ)二つしかない。一度考えた問題に再度直面し、堂々巡りをしだすパターンと、考えた先にさらに考える余地を見つけるパターンだ。

 前者はどこかしらで自己矛盾が生じている。その原因は、思考する際に切り捨てられた部分の情報にある。思考するということは、コンピュータである現象を数値計算によって考察しようとする行為にとても似ている。コンピュータのスペックには限度があるため、計算する際には様々な仮定を置き、簡単なモデルに直して計算することで実際に起きている現象について考察している。

 たとえば、水道から流れる水の落下速度を計算するとして、地球からの引力を含めて計算する必要があるが、月の引力項を計算に含めることは少ないだろう。しかしながら、潮の満ち引きに関して計算しようとなれば、当然、月の引力項はなくてはならない重要なファクターである。何かを考えるときは必ず脳内でモデル化が行われており、どれだけ具体的に考えているつもりでも、必ず抽象化を伴う。

 考えることは「現象を抽象化し、他の場合も同様の処理を適用できるようにすること」だと言ってもよい。これは人間が考えるとき、言語に頼っていることに依るものだが、別の機会に詳しく触れたい。ここで述べたいことは、すべての情報(どこまでをすべてととるかは裁量が難しいが、ここでは必要なかなりの精度での「ある程度」の意)をもとに考えることは不可能であるため、その仮定の際に落ちた情報、あるいは議論の抽象化のために落とした項目により、矛盾を招いてしまうということだ。

 後者については物質の最小単位の話がわかりやすいであろう。100年前までは物質の最小単位は原子だった。それが数十年前には原子は電子と原子核から成ることがわかり、今では原子の中にある陽子と中性子クォークなる素粒子から成っていることが知られている。突き詰めることに果ては無いのだ。

 ただし思考を行っている人間は肉体があり、寿命が有限のため、突き詰めた先は「死」である。多くの純文学は自分の生について問う主人公の死をもって物語を終える。思考の先は死である。素粒子の話と死になんの関係があるのかと思うかもしれないが、統計力学の基礎を築いた有名な物理学者であるボルツマンは、自身の発見したエントロピー増大の法則から希望を見出せなくなった結果、鬱になり自殺した。お分かりいただけただろうか?考えた頃で希望は無いのである。人は皆、物事を突き詰めて考えてはいけない。もっとも、生きていたいと想うならば。

 

 「『考えること、学ぶこと』は人間にしかできない」といえば語弊があるかもしれないが、高度な論理的思考や知識を貪欲に求める姿勢に私はとてつもなく"人間らしさ"を感じる。多分、他の動物にはできない。少なくとも我が家にある日突然やってきた猫を見ている限りでは。なぜか?人間以外にそんな苦しいことをしたがらないからだ。

 宗教や歴史学にはあまり詳しくないが、教養のために旧約聖書の概要だけでも知っておこうと文章を漁っていた時、「禁断の果実」のくだりはまったく理解できないものであったが、時を経て知り合いの人文系大学院生と話し込んだ際にこんな言葉を聞いて感銘を受けたのを覚えている。「考えることをやめたら、それはもう人じゃないんだよ。知識は無い方が幸せに決まっているのだから、知識を追い求めることは本来罪なことなんだよ。知恵の実は食べたらいけない物なのだから。」

 

 私は考えずにはいられない。罪であっても、それでも。そして、生きているからには、人間であるからには、できる限り考えることを役立てられる働き方(アクションの方だ)をしていきたいと考える。

 では、考えはどのようにして役立てられるのか。その思考の価値が認めるためにはアウトプットが必要である。なぜか?脳内で考えるとき既に言語化のプロセスをたどっており、言語は相手を必要としているからである。アウトプットは誰かに伝えることをより意識して行う。脳内による思考だけよりも使えるスキルになるであろう。ここでは自分の脳内で飛び交う言葉や言語化されていない考えを整理する目的で文章に起こしてみようと思う。いうなれば、『記憶の整理箱』である。“誰か”に伝えるための文章を私のために私が書く。ここはそのための空間である。