アウトプット

 

 

 このブログを立ち上げてからそれなりに日数が立っている。半年から一年くらいだろうか。ブログを作りたいとは常々想っていたのだが、「ブログの開設とか、なんだか面倒くさそう、思っていることを全文文字に起こすのは時間がかかるしやらなさそう。」などと思い、想い留まっていた私が「えいっ!」っと開設したのがそれくらい前だったということなのだが。

 一件目の記事を見直せば…。結構病んでいたのだろうか。就活とか、学部の人たちとの価値観の違いに、多分。

 それから長らく、想像していた通りに記事は更新されない訳だが、ここ数日は書き走らせることに気が向いているらしく、何らかの書き出しをする気合が高まっている。自分を冷静に省みて分析してみるに、簿記二級試験からの逃避である。全く、いいのか悪いのかといったところだが、私としては理由は何にせよ、自分の考えを整理して書き出す機会を作ることはいいことだし、気が向くのは有難いことだと考えている。(もうちょっと自分の気分やモチベーションくらい、外的要因に頼らず、自分でコントロールしたいものだとは思うのだが。)

 

 さて、今回のテーマである『アウトプット』なのだが、ブログタイトルでもある「思考の整理箱」のまさにそれであろう。

 

 Twitterで回ってきた「記憶くんと思考くん」のマンガの内容を見てほしい。

 

 ~頭の中には過去を思い出して「アー!」ってなったりくよくよしたりする記憶くんと現状把握して対策する思考くんがいて、辛くて悩んでいるとき、頭の中のメモリを記憶くんが占領していて思考くんが新しいことを考えられないため、メモリを空にしてやる必要があるというもので、それを実行するためには、『人に話す』か『紙に書く』科だという。この際、無理にまとめる必要はない。すると外部記憶されたと思い、記憶くんが頭のメモリからいなくなり、思考くんが働く余裕ができる。そして、空間が生まれれば思考くんが最大限にパフォーマンスを発揮できるという仕組みだ。話せることは誰かに話し、言えないことは紙に書いて捨てよう。~

 

 という一連の話であった、なるほどわかりやすい。結局、コンピュータも人も似たようなものってことか。これを受けて、より一層外に「書き出す」こと、頭の中を「掃き出す」(あるいは「吐き出す」)ことの重要性について考えさせられたわけだ。

 

 私はカッコイイ人になりたい。私の人生の最終目標は高田純次なのだ。なりたい自分、格好いい自分になるための努力、まずは「勉強」をしなくてはならないと思い、取り組んできた。勉強は嫌いだがなりたい自分になるため、モテる為になら私は努力は惜しまない。ここでは求める理想像についてや、私の言う「カッコイイの定義」や、そのための必要条件やルートは割愛する。

 とりあえず、まわりと同じことをしていては全く理想の姿に近づけないと思い、 みんながソシャゲに費やしている時間の分、あるいは身を粉にして机に向き合い物理学を勉強している時間の分を、自分が関心のある分野について、自分なりに随分熱心に勉強した。がむしゃらにやってみた、 あまり頭がよくなく、効率も悪い私は、勉強の仕方すらよくわかっていなかったから。

 

 最近でいえば、それ(まわりとは違う勉強)はビジネスに関することだっただろう。自立するため、将来お金で不自由しない生活をおくるためであり、その方法として株で儲ける方法を学び、自己流を生み出すためであった。新規事業立案系のベンチャー経営者になることを最終目標とした(たぶんそうだったのだろう)経営学や新規事業の考え方のエッセンスの勉強であり、ビジネスモデルや産業構造の理解に対する取り組みであった。

 やることは主にFacebookTwitterで起業家や投資家が何に注目しているのか、どんなことに興味関心があるのかをリンクのweb記事などから読み解く、読み漁ることだった。楽天マガジンで経済紙を読み漁ることであり、バフェットの証券投資の考え方や、財務諸表の読み解き方を一通り理解し、バリュー投資を学び、テクニカル分析をかじり、お金に関するリテラシーを書籍から必死で学び取ることだった。

 

 少し前の関心でいえば、文学や芸術、建築に関することであろう。村上春樹が読めるのは大学生のうちだと思い、一回生の後期から二回生の終わり頃まで初期と短編集を中心に熱心に、何度も読んだ。海外文学も教養のためと思い、ヘッセやヘミングウェイ、フィツジェラルド、カフカカポーティどいろいろ呼んだ。構造デザインマップ片手に、東京の有名建築を巡った。

 

 しかし、これらのことすべてに言えることがある。圧倒的に「アウトプットが足りない」のだ。片っ端から情報を集め、頭の中にインプットしていくことだけに重点を置いていた。記憶に容量を取られてばかりで、「思考する」ことが出来ていなかった。

 

 という素敵なタグがTwitterで回ってきた。私はその一つとして安部公房の「砂の女」を書いたのだが、「この作品は解釈が難解で、いろいろな見方ができる。筆者が何を伝えようとして書いたのか、また自分がそこから何を感じ取ったのか書き留めたら面白そうだな」と読み終えた時に思ったことを、久しぶりに本の中の一文を読むことで想いだした。

 村上春樹を熱心に読んでいた時代も、読み終わった後は有名な考察ブログを回り、解釈を確認したり、「ここは私の解釈のが自然だろ、私のが優れているな」などと思ったりしたものだが、やはり、書き起こすまでには至らなかった。

 今、とても後悔している。「もし、あの頃本を読むたびに感想を書き起こしていたら。」「もし、読んだ本の内容の要約だけでも自分なりにしていたら。」今の自分より脳内の整理の効率が良くなっていたであろう。文章力が鍛えられていたであろう。なにより、昔の自分と読書討論会をするのは楽しかったであろう。

 このタグのおかげで、もっとアウトプットしておけばと思うことができた。同時に、「砂の女」をはじめ、多くの本を読み直してみたいと思った。そしてその際は自分の考えを書き起こすのだ。ここに。

 マネータイムというビジネスや金融商品について、考えをまとめるための、備忘録としてのブログもここに作った。そっちのことはそっちに書き出していこうと思う。関心があるものをどんどん拾って、忘れないうちに整理してアウトプットする。

  

 長くなったが、これが今回「アウトプット」について書こうと思った経緯である。

Twitterのおかげである。自分の興味あることに特化した情報収集も、発信もできる、思いもよらなかったところからアイデアがRTで回ってくる、Twitter大好き。

 とは言っても、いいことばかりでもない。自由に発信したくて、誰かに私の考えをしてほしくて始めたはずのTwitterであったが。そんなTwitterでさえ人間関係や他人からの視線を気にしてしまい、アカウントを作り直す羽目になった。そのうえ、まだ息苦しさを感じ、呟きたいことを呟けずにいる。まぁ、選民思想を働かせ、呟かないでいるのは自分なわけで、その選民思想を選択し、形作っているのも間違いなく自分なわけだが。呟くことを出来なくしているのは自分自身な訳だが。

 

 そんなこんなで、新しい掃き溜め、ゴミ箱としてこの場がある。

 人目を気にせず、つらつらと思ったことを書き出そう。気に入ったことがあったり、気が向いたりしたら共有しよう。だから、気楽に何でも書き出そう。頭の中にためていたって、それはただのデータの集まりでしかない。自分の知識にも実力にもなっていないのだから。出鱈目な理論を展開しよう、剽軽な書評を公表しよう、それでいいじゃないか、そんなものだろう。

 

 何が言いたいのかというと、書き出すことに意味がある。私にとって、私の頭にとって。

 

 

 

 

服について

 

 服について話そう。

 

 僕は自分の見た目について、それを表現する一番のツールである服について一切の妥協をしない。したくない。

 しかし、学生であるからには収入はほとんどなく、限られた資産の中で最大限のパフォーマンスをしてくれるコスパのいい服を求むべく、古着屋で発掘作業に精を出している。

 もし、資金に余力があるのであれば、私もある程度ちゃんとした店で、自分の体に合った仕立てのものを買いたいわけで、そうなるとやはり新品を買いたい。元々私の買う古着は「古着らしくない」ものが多く、単純に「節約してオシャレがしたい」からだ。新品で買ったら15,000円程度はするであろうシャツを5,000円で買えるから買うのであって、多少の使用感はあれど、それすらもなるべく少ないものを選ぶ。

 

 そんな私は百貨店や高級USED店の店員が着ている服を見るたびに、「とても格好いいな、羨ましいな」と思う。そういうところで働いている人は大抵とても身なりに気を使っていて、身嗜みに対する意識が高い。清潔で、外見が(総合的にとても)オシャレだから特にそう感じるのだろう。

 

 自分もそういった服を将来的には着たいと思う。格好よく、気持ちのいい見た目になりたいと思う。だが、それと同時に「彼らの着ている服が彼らの手取りに(あるいは年収に)不相応なものなのではないか」という考えが浮かんできてしまう。浮かんできてしまうとそれはたちまち頭の中いっぱいに膨れ、覆いつくす。そうなってしまうと、私はとても複雑な心境になってしまう。

 ようは「見栄を張っているだけでは?」と思えてきてしまうのだ。

もちろん、売り手として当たり前のことをしているだけなのだけれど、彼らは限られた生活費のうち、少なくない金額を服に費やすことになる。それがいいことなのか悪いことなのかは私にはわからないが、少なくとも私のポリシーにはそぐわないようだ。

 

 少し話がそれるが、私は自分を囲むもの、自分の生活を彩るものをとても大切にしたいと考えており、よいものを使いたいと思ってる。それは値段じゃなく、長く使えるかであり、素敵なデザインかであり、自分がそれに愛着を持てるかだ。もちろん、そういったものは相対的に値段の高いものが多くなってしまうのだが、そうばかりとも限らない。

 そして現在の自分よりも少しだけ背伸びしたものを使うようにしている。これは身の回りのものに自分の価値を引き上げる為であり、次のステージに行くための手助けをしてもらうためだ。そう考えて私は使うものを選ぶ。

 

 話を服に戻そう。私が店員たちに違和感を感じるのは自分の社会的ランク(これはわかりやすく言えば年収であり、信用度であるが、厳密にいえば社会貢献度であり価値提供スキルであると考える。が、長くなるのでまた別の機会に書こう。)に見合っていないと感じてしまうからだ。先ほどの背伸びしていいものを買う話でいうと、背伸びどころでなく高さが違いすぎて滑稽に見えてしまうということだ。ギターで言ったら初心者の高校生が100万もするオールドギターを最初の一本にした。みたいな状況だろうか。

 あらためて、私が店員の服に対してもやもやとした違和感を感じずには入れれないのは、身の回りのものについて、上記のような価値観をもとに行動しており、やはり『服に対する思い入れが強い』からだろう。服装、身なりに対して、身の回りのものの中でも特別な思い入れがあるからなのだろう。

「もし自分がそういった服を着るとするならば、いくらぐらい稼いだ頃で、それは自分が何歳になった頃だろうか?いい歳になってもまだ、服にお金を注ぎ込む気力が残っているだろうか?そもそも、異性に好感を持たれるため(あるいは不快に思われないため)に容姿を気にしているのに、私はずっとまともに彼女の1人も出来たことがないではないか。しかし、気にしなくなったら現状よりひどい結果になることは目に見えている…。」

 そんなこんなを考えると、仕立ての良い服選び、あるいは将来の高級な服選びについて僕はナーバスな気分になってしまう。 

 しかし、同時に早く社会人として一歩目のステップを、次のステージに上がるための一歩を、早く踏み出したいを思う。

 

2017/09/15

考え方

 気付いたんだけどさ、思考の飛躍が得意な人もいれば不得意な人もいる。これはとてもいいことなんじゃないかな?

 

 『厳密な思考はわかりやすい。一見難解な概念や理論が使われていても、一つ一つ順を追っていけばわかるように書かれているからだ。それに対して、いわゆる「わかりやすく」書かれている書物は、実はわかりにくい。一見簡単に見えても、ところどころに思考の飛躍や掘り下げた思考の省略があるからだ。』

 

 みたいなツイートを読んでさ、この人は本当に1から順を追っていかないと考えることもできない馬鹿なんじゃないかと最初は正直思ったの。自分はすごく思考の飛躍や説明の省略をするタチだからさ。

 でも、どっちかが優れていてどっちかがダメ、ってことではなくて、それを必要とするところと、そうでないところがあって、お互いができないところで各々が活躍できると思えるようになったんだ。

 数学者は論理構築のために厳密な思考をして、理解、表現しないといけないかもしれないけれど、統計学を金融に利用することは公理から導かなくても、道具として使える程度まで飛躍した思考で理解することが求められているのではないかな?

 難解な文章を理解できる人が頭のいい人なのだろうか、わかりやすく書かれた文章から得た知識を使って、何かほかのところにアプローチをかけられる人達は学者とは違った意味で頭がいいはずだ。逆に難しい文章を解読することに必死になっている人達もいる。彼らは何か、彼ら自身で価値を想像したのだろうか。難解な知識をひとより多く持ち合わせているだけで頭がいいといえるのだろうか。

 

 学者に向く人は思考の飛躍に向いていないだろう。逆にアカデミックに向かないからといって馬鹿だとは限らないし、いい意味での「思考の飛躍」というものも確かにあるはずだ。そのくらいでいいんじゃないかな?その程度。

これって本当に気付いてよかったし、素敵なことだと思うんだ。

 

……素敵だと思わない?

記憶の整理箱

 

———多くの人は日々何を考え、何を思い生きているのだろうか———

 

 ふと、そんなことを考える。多くの人は何も考えてなどいない。それでいい、そうあるべきなのだ。賢くなることに価値などない。考えない生活の方が考える生活よりも何倍も幸せである。考え続けて、もう十分にそのことを知っているはずなのに。なぜだろう?今日もまた私はこうして考えている。

  

 私は幼い頃より常に何を考えていないといけない体質だ。一種病的なまでに思考の停止ができない。ぼーっとする、ということができないのだ。まわりから「ぼーっとしてたよ?」と言われることはあれど、それは現実世界とは遠いところで何かを考えているからであって、ぼーっとしているわけではない。目の前のこと(私の物理的な部分が近接している何かしらの状況)に反応ができていないだけのことである。

 考える内容は様々だ。他愛もない内容から私という人格の本質に迫るようなことまで、何もわかりはしないのだが。しかし、多くの人からの評価やちょっとしたやり取りによって得た客観的事実は、私か様々なことについて「深く考えすぎ」だということであった。

 

 深く考えて考えて、考え抜いた先に得る結果は(今のところ)二つしかない。一度考えた問題に再度直面し、堂々巡りをしだすパターンと、考えた先にさらに考える余地を見つけるパターンだ。

 前者はどこかしらで自己矛盾が生じている。その原因は、思考する際に切り捨てられた部分の情報にある。思考するということは、コンピュータである現象を数値計算によって考察しようとする行為にとても似ている。コンピュータのスペックには限度があるため、計算する際には様々な仮定を置き、簡単なモデルに直して計算することで実際に起きている現象について考察している。

 たとえば、水道から流れる水の落下速度を計算するとして、地球からの引力を含めて計算する必要があるが、月の引力項を計算に含めることは少ないだろう。しかしながら、潮の満ち引きに関して計算しようとなれば、当然、月の引力項はなくてはならない重要なファクターである。何かを考えるときは必ず脳内でモデル化が行われており、どれだけ具体的に考えているつもりでも、必ず抽象化を伴う。

 考えることは「現象を抽象化し、他の場合も同様の処理を適用できるようにすること」だと言ってもよい。これは人間が考えるとき、言語に頼っていることに依るものだが、別の機会に詳しく触れたい。ここで述べたいことは、すべての情報(どこまでをすべてととるかは裁量が難しいが、ここでは必要なかなりの精度での「ある程度」の意)をもとに考えることは不可能であるため、その仮定の際に落ちた情報、あるいは議論の抽象化のために落とした項目により、矛盾を招いてしまうということだ。

 後者については物質の最小単位の話がわかりやすいであろう。100年前までは物質の最小単位は原子だった。それが数十年前には原子は電子と原子核から成ることがわかり、今では原子の中にある陽子と中性子クォークなる素粒子から成っていることが知られている。突き詰めることに果ては無いのだ。

 ただし思考を行っている人間は肉体があり、寿命が有限のため、突き詰めた先は「死」である。多くの純文学は自分の生について問う主人公の死をもって物語を終える。思考の先は死である。素粒子の話と死になんの関係があるのかと思うかもしれないが、統計力学の基礎を築いた有名な物理学者であるボルツマンは、自身の発見したエントロピー増大の法則から希望を見出せなくなった結果、鬱になり自殺した。お分かりいただけただろうか?考えた頃で希望は無いのである。人は皆、物事を突き詰めて考えてはいけない。もっとも、生きていたいと想うならば。

 

 「『考えること、学ぶこと』は人間にしかできない」といえば語弊があるかもしれないが、高度な論理的思考や知識を貪欲に求める姿勢に私はとてつもなく"人間らしさ"を感じる。多分、他の動物にはできない。少なくとも我が家にある日突然やってきた猫を見ている限りでは。なぜか?人間以外にそんな苦しいことをしたがらないからだ。

 宗教や歴史学にはあまり詳しくないが、教養のために旧約聖書の概要だけでも知っておこうと文章を漁っていた時、「禁断の果実」のくだりはまったく理解できないものであったが、時を経て知り合いの人文系大学院生と話し込んだ際にこんな言葉を聞いて感銘を受けたのを覚えている。「考えることをやめたら、それはもう人じゃないんだよ。知識は無い方が幸せに決まっているのだから、知識を追い求めることは本来罪なことなんだよ。知恵の実は食べたらいけない物なのだから。」

 

 私は考えずにはいられない。罪であっても、それでも。そして、生きているからには、人間であるからには、できる限り考えることを役立てられる働き方(アクションの方だ)をしていきたいと考える。

 では、考えはどのようにして役立てられるのか。その思考の価値が認めるためにはアウトプットが必要である。なぜか?脳内で考えるとき既に言語化のプロセスをたどっており、言語は相手を必要としているからである。アウトプットは誰かに伝えることをより意識して行う。脳内による思考だけよりも使えるスキルになるであろう。ここでは自分の脳内で飛び交う言葉や言語化されていない考えを整理する目的で文章に起こしてみようと思う。いうなれば、『記憶の整理箱』である。“誰か”に伝えるための文章を私のために私が書く。ここはそのための空間である。